- 第28回 スポーツドクター 辻 秀一-その5-自分のために働くことが 必ず他人のためになる
「スポーツで社会貢献」という理念を胸に、東奔西走を続ける辻氏。彼には「東京にプロバスケチームを作る」ことのほかにも、実現すればまさに日本を変えてしまうくらいの大きな夢があった。シリーズ最終回の今回は辻にとって仕事とは何か、何のため、誰のために働くのかに迫った。
[2008年03月17日] - 第28回 スポーツドクター 辻 秀一-その4-「スポーツで社会貢献」を胸に
いくつかの運命的な出会いを経て、38歳で独立した辻氏。組織を立ち上げ懸命に取り組んでいると人が集まり、次の構想が生まれ、そこからまた新しい組織が誕生していく。そんな連鎖でこれまで立ち上げた組織は5つ。しかしまだ辻氏の激走は終わりそうもない。
[2008年03月16日] - 第28回 スポーツドクター 辻 秀一-その3-「スポーツで診る」という新発想で人々のQOLを上げたい 戻る
内科医として4年間勤務した後、「医師としての自分」に疑問をもち、「本当にやりたいこと」を考える過程の中で次第に大きくなっていったスポーツへの思い。そしてついに30歳にして大学を辞職、いよいよスポーツ医学への道を歩み始めた。この決断により、辻氏の運命は大きく変わっていった。
[2008年03月15日] - 第28回 スポーツドクター 辻 秀一-その2-とことんまで自分と向き合い スポーツ医学の道へ
大学卒業後、都内の名門大学病院に就職し、医師として職業人生のスタートを切った辻氏。2年間の研修医期間を終えた後は、さらに別の病院での修行が始まった。しかしそこで改めて自分自身と向き合うことを余儀なくされる。それは小さいが、後の人生の方向性を決定づける最初のきっかけだった。
[2008年03月14日] - 第28回 スポーツドクター 辻 秀一-その1-個人のQOLを上げて豊かな世の中に
スポーツで世界平和を目指している男がいる。辻秀一46歳。スポーツドクターにして、4つの会社と1つのNPOを運営する経営者でもある。いち内科医から始まり、壮大な夢をもつに至るまでに何があったのか。辻氏にとって仕事とは何か、「よく生きる」とはどういうことなのか、熱く語ってもらった。
[2008年03月13日] - 第27回 心臓外科医 須磨久善-その5-悪い心臓を治すだけが仕事ではない
外科医になって35年。鍛錬に鍛錬を重ね、いつしか「神の手をもつ男」と呼ばれるまでになった。その両手で目の前の患者を救うだけではなく、新しい手術に挑戦し、自ら考案した手術を世界に広め、さらに手術の改良を重ね、成功率と生存率を高めてきた。そんな須磨氏だからこそ頼ってくる患者は絶えることはなく、限界までそのすべてに応えようとしている。須磨氏を駆り立てるものは何なのか。須磨氏にとって外科医という仕事とは何か、何のために働くのか──。
[2008年02月21日] - 第27回 心臓外科医 須磨久善-その4-「手術して終わり」ではない
下準備と心構えをもって国内外の優秀な外科医を訪ね、イメージ力と判断力を養っていった若き日の須磨氏。技術力も自ら考案した鍛錬法で磨いていき、いつしか神の手をもつ心臓外科医と呼ばれるまでになった。しかしそんな須磨氏でもすべての患者の命を救えるわけではない。中には手術しても命を落としたり、手術自体を施せない場合もある──。今回は若き日の技術修行法、そして外科医ならではの苦悩に迫った。
[2008年02月20日] - 第27回 心臓外科医 須磨久善-その3-外科医にとって最も重要なのは手先の器用さではなく想像力
世界初の胃の動脈を使った心臓バイパス手術や国内初のバチスタ手術など、病に苦しむ患者のために、未知の難手術に挑戦し、しかも高い成功率を誇っている須磨氏。なぜそういうことが可能なのか。今回は外科医にとって最も重要なのはどんな能力なのか、そして一人前になるためのコツを語っていただいた。
[2008年02月19日] - 第27回 心臓外科医 須磨久善-その2-医者は患者のためにある
大学卒業後一般外科の経験を積んだ須磨氏は、4年後、心臓外科に「挑戦」。いよいよ心臓外科医としてのキャリアをスタートさせた。1984年、アメリカのユタ大学の心臓外科が史上初の人工心臓完全埋め込み手術に成功すると、その手術を行った医師に直接教えを請うためにユタ大学へ留学。半年間、心臓手術の本場で一流の医師から最新の技術と知識を吸収した。そして帰国して2年後、36歳で世界初の心臓バイパス手術に成功。これにより須磨氏の評価は飛躍的にアップ、心臓外科医としてのキャリアも大きく変わっていった。
[2008年02月18日] - 第27回 心臓外科医 須磨久善-その1-社会の中で幸せに生きるために 医師という手段を選んだ
「神の手」をもつと呼ばれる男がいる。心臓外科医・須磨久善57歳。これまで世界初、日本初となる数々の難手術に挑戦し、数千人の命を救ってきた。30年以上もの間、数多くの弱った心臓を蘇らせてきた医師に、医療とは何か、仕事とは何か、そして命とは何かを聞いた。
[2008年02月17日] - 第26回 プロ棋士 瀬川晶司-その5-将棋は宇宙、その謎に迫りたい
恩師からの葉書で自分を取り戻した瀬川氏は第二局を勝利、第三局のA級8段棋士には敗退したが、第四局、第五局で勝利し、ついにプロ棋士・瀬川晶司が誕生した。ここにプロジェクトSは最高の結果で幕を閉じた。しかしそれは同時にプロ棋士としての厳しい戦いの始まりでもあった。今回は瀬川氏にとって将棋とは何か、そしてプロ棋士として生きるということを語っていただいた。
[2008年02月16日] - 第26回 プロ棋士 瀬川晶司-その4-失われていく最後の希望を つなぎとめたのは「恩師」だった
2004年、将棋仲間を中心に瀬川氏のプロ入り実現のための「プロジェクトS」が結成。瀬川氏も翌年、将棋連盟にプロ入りの嘆願書を提出し、前代未聞のプロジェクトは本格的に始動した。この時点で瀬川氏がプロ入りへの第一関門にまでたどり着ける可能性はほとんどなかった。無謀な挑戦。将棋界の常識を知る者はみなそう思ったがしかし、男たちはあきらめなかった。
[2008年02月15日] - 第26回 プロ棋士 瀬川晶司-その3-再び将棋の楽しさに目覚め アマ最強からプロ棋士キラーに
絶望や悲しみを受容し、一歩踏み出した先の新しい生活で少しずつ自分を取り戻していった瀬川氏。そして、一度は恨みすら抱いた将棋の世界へ再び身を投じ、アマチュア棋士最強の称号を得、さらに、もう一度「夢」への挑戦を決意する。瀬川氏の背中を押したのは、あの「ライバル」はじめ、亡き父、そして周囲の仲間たちだった。
[2008年02月14日] - 第26回 プロ棋士 瀬川晶司-その2-自ら命を絶とうとまで思った 後悔と絶望と怨嗟の日々
まずは最初の関門を19歳で突破し、22歳でいよいよプロへの最終関門・三段リーグに昇格した瀬川氏。タイムリミットの26歳まであと4年。さらにルール改正でチャンスは8回となり、生き残り合戦はさらに熾烈を極めることとなる。さらに本来のスタイルとはほど遠い将棋しか指せなかった瀬川氏は次第に追い詰められていった。
[2008年02月13日] - 第26回 プロ棋士 瀬川晶司-その1-夢を追い求めた男の天国と地獄
2005年11月、61年ぶりとなる異色のプロ棋士が誕生した。男の名は瀬川晶司37歳。小学生で将棋のプロを目指し、研鑽を積んできたが、制度の壁の前にプロへの夢が絶たれた。一度は就職し、サラリーマンとして生きる決意をしたが、やはりプロ棋士への夢捨てきれず、再度の挑戦を決意。しかし「制度の壁」を乗り越えられなかった者がプロ棋士になることは事実上不可能だった。瀬川氏はどうやって不可能を可能にしたのか──。今回の魂の仕事人では、夢を追うことの素晴らしさと残酷さ、そして「好きなことを仕事にするということ」に迫った。
[2008年02月12日] - 第25回 株式会社プロダクション I.G代表取締役社長 石川光久-その5-「仕事」は人生を楽しむために
繰り返し自らを「小さい人間、たいしたことのない人間」と本気で語る石川氏。しかしこれまでの数々の実績、プロダクションI.Gの経営状態を見れば、石川氏が稀代の名プロデューサーにして、名経営者だということは明白である。シリーズ最終回の今回では、そんな石川氏にとっての「仕事」、そして「夢」を聞いた。
[2008年02月11日] - 第25回 株式会社プロダクション I.G代表取締役社長 石川光久-その4-経営はあくまで作品中心に
2005年12月、プロダクション I.Gはジャスダックに新規株式を公開。企業としてさらに一段高いステージに登った。着実に進化し続けるI.Gだが、指揮を執る石川氏はこれまで経営者に向いていると思ったことは一度もないという。今回は石川氏にとって会社を経営するということ、そして作品をプロデュースするということについて語っていただいた。
[2008年02月10日] - 第25回 株式会社プロダクション I.G代表取締役社長 石川光久-その3-下請けからの脱皮を決意
『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』(監督:押井 守)の続編で、下請けから脱皮して業界内で「立ち上がろう」と決意した石川氏。しかし立ち上がることはリスクを伴う。業界内でクライアント側である大企業と競争したり、時には戦ったりしなくてはならないからだ。しかし石川氏は恐れなかった。その勇気が従来のアニメーションビジネスの枠組みを壊し、変えていくことになる。
[2008年02月09日] - 第25回 株式会社プロダクション I.G代表取締役社長 石川光久-その2-悔しさから独立、フリーに
10カ月の世界放浪を終えた後、正社員としてタツノコに復帰した石川氏。制作進行からの再スタートだったが、三カ月後には複数の制作進行をまとめ、シリーズ全体の予算とスケジュールを管理する制作デスクに昇進。その後も熱心な仕事への取り組みが評価され、順調にステップアップ、3年後、27歳のときにはプロデューサーに昇進した。しかし石川氏はまたしても辞表を出した。今回はアニメ業界そのものから去るつもりだった。
[2008年02月08日] - 第25回 株式会社プロダクション I.G代表取締役社長 石川光久-その1-「普通が夢」だった少年時代
日本が世界に誇る産業のひとつ、「アニメーション」。96年には『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』(監督:押井 守)がアメリカ「ビルボード」誌のセルビデオ部門で1位を獲得。記憶に新しいところでは、2004年に『イノセンス』(監督:押井 守)が日本アニメーション作品として初めてカンヌ国際映画祭コンペティション部門にノミネートされた。これらを筆頭に、世界が賞賛する作品を生み出し続けているアニメーション製作会社「プロダクション I.G」を率いるのが石川光久48歳。今回は、次々に業界の常識を打ち破り、「アニメーションビジネスを変えた男」と呼ばれる石川氏に、なぜそうすることができたのか、そして「働くということ」について聞いた。
[2008年02月07日]


